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博多祇園山笠は2016年12月1日ユネスコ無形文化遺産に登録。

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博多祇園山笠の起源

博多祇園山笠の起源については諸説あります。
「大嘗会の標の山」説 「小野好古 祇園社勧請」説 「聖一国師 疫病退散祈祷」説 「『九州軍記』記録初見」説。
最も有力な説とされ一般に知られているのが「聖一国師 疫病退散祈祷」説で鎌倉時代の1241年(仁治2年)博多で疫病が流行した際に宋から帰朝した承天寺の開祖である聖一国師(円爾弁円)が町民に担がせた木製の施餓鬼棚に乗り甘露水を撒きながら町を清めてまわり疫病を退散させた事が発祥とされ後に施餓鬼棚に人形等を飾り付け聖一国師の功績を称える様になりそれが山笠の原形になったと言われています。(博多祇園山笠振興会でもこの説を起源として採用しています)

追い山の起源

博多の山笠もかつては京都の祇園祭の如く流ごとに飾り山の華美を競いながら練り歩いていたのですが…江戸時代は貞享4年(1687年)の正月、土居町から美人の嫁を貰った堅町の若者が嫁の実家へ年始の挨拶の為に里帰りした際に 土居町の若衆が本来は振り掛けるだけの祝いの笹水を婿に浴びせ掛け桶を頭に被せてしまったからさぁ大変!美人を取られた僻みと酒が入っていた事もあるが調子に乗り過ぎた…怒った堅町の若衆が押し掛け大喧嘩へと発展。その場は収まったがその年の山笠は二番が土居町で三番が官内町(堅町と同じ石堂流)土居町の山笠が東長寺前で昼食の休憩をしていると官内町の山笠が堅町の恨みを晴らそうと追い抜きに掛かった…驚いたのは土居町だ!慌てて出発するが追い掛けて来る、二つの山が競争する形となりました。この事が評判になり他の町の山笠も競争を行う様になり、山笠を追い掛ける事から「追い山」と呼ぶようになったとか。

博多祇園山笠と博多の歴史

天平宝字元年(757年)
櫛田神社創建。
天平宝字三年(759年)
「博多大津」の名続日本記に見える。
大同元年(806年)
空海(弘法大師)が東長寺を開山。
延喜十九年(919年)
筥崎放生会始る。
天慶四年(941年)
小野好古、京都八坂神社より素盞鳴命を勧請、祗園社できる。
「小野好古 祗園社勧請」 山笠起源説
長徳四年(998年)
一条天皇の時、京中で大嘗会の標山のような作山を引いたとの史実あり。
「大嘗会の標の山」 山笠起源説
治承三年(1179年)
正月15日、博多松囃子を取り行うとある。
建久六年(1195年)
日本に初めて禅宗を伝えた栄西禅師が日本最初の禅寺「聖福寺」を建立 日本臨済宗を開いた。
仁冶二年(1241年)
聖一国師が博多津中の人々の担ぐ施餓鬼棚に乗って甘露水を撒いて疫病退散を祈願。
「聖一国師 疫病退散祈祷」 山笠起源説
仁冶三年(1242年)
謝国明が承天寺を建立寄進し聖一国師を開山とする。このころ満田弥三が博多織を始める。
永享四年(1432年)
『九州軍記』に「6月15日博多津櫛田祇園社の祭事あり三社の神輿沖の浜へ御幸の後山の如く12双の作り物を組み上に人形様のものを据えてこれを棒もて舁き行」とあり。
「『九州軍記』記録初見」 山笠起源説
康正年間(1455年~1456年)
時の探題大内義隆の命により博多祇園山笠12本のうち周防(山口県)の山口に6本を頒ち以後博多祇園山笠は6本に。
大永六年~弘治三年(1526年~1557年)
後奈良天皇の不予祈祷満願の時承天寺に山笠を舁き入れる。
天正十五年(1587年)
太閤町割り
豊臣秀吉が九州征伐のおり荒廃した博多を復興させるべく博多の豪商 嶋井宗室•神屋宗湛に町作りを命ずる。
博多部七流の始まり
秀吉は博多復興にいわゆる四水・四応・四神相応の計画を立て博多の町を七条の袈裟になぞらえる七七四九願をあらわし博多を一山の七堂伽藍に例えた。
七流……呉服町流 東町流 西町流 土居流 須崎流 石堂流 魚町流
七小路…一(市)小路 中小路 金屋小路 奥小路 古小路 浜小路 対馬小路
七厨子…奥堂厨子 普賢堂厨子 瓦堂厨子 萱堂厨子 脇堂厨子 観音堂厨子 文殊堂厨子
七堂……辻堂 奥堂 石堂 普賢堂 瓦堂 茅堂 脇堂
七口……浜口 象口 瀧口 川口 堀口 蓮池口 渡唐口
七観音…大乗寺観音 妙楽寺観音 観音寺観音 聖福寺観音 乳峯観寺観音 龍宮寺観音 東長寺観音
七番……竹若番 箔屋番 蔵本番 奈良屋番 釜屋番 麹屋番 倉所番
そして現在でも博多の街では幾つもの名称が続いている。
寛文二年(1662年)
小山町当番武田信玄を作れリ竹若番堅粕屋藤三郎の家に倒れ掛かり山崩れ家屋は焼失せり。
寛文八年(1668年)
山笠舁筵および絹女着物金紗類金入縫入自今禁止せらる。
寛文九年(1669年)
六本の山笠標題や当番町名など記載のある最古の山笠番付文書
衣笠合戦(金屋町)義経鈴の御崎にて貝取(御供所町)白川合戦(市小路下ノ番)大職冠(釜屋町)摩屋合戦(洲崎町)上瑠璃(中小路町)
貞享四年(1687年)
追い山の始まり
『博多土居町に助右衛門と言う者があり娘を堅町幾右衛門の息子に嫁がせしが正月幾右衛門の息子夫婦が嫁の里に初入りして来たところそのころの風俗として幾右衛門の息子に土居町の若者が水桶を担がせ歩き廻らした事を堅町の者が聞き土居町の助右衛門のところに押しかけて大喧嘩となりその場はとにかく納まりしもこの夏の祇園山笠は土居町が二番山三番山が宮内町で堅町の組なり』(櫛田社鑑)
元禄十三年(1700年)
五月博多町々より疱瘡立願の山笠を作る。
宝永五年(1708年)
公命により本年より一番・三番・五番を修羅(差し山)二番・四番・六番を鬘(堂山)に作らしむ。
享保八年(1723年)
奈良屋番が人形に高師直を作る。蛇が師直の首に巻き付き「追い山」の後舁仕舞山笠倒れ高師直人形破損せり。
寛保三年(1743年)
土居町筋に勢揃い始め。
宝暦二年(1752年)
今年三苫惣吉初めて居住の二番山作る是より段々山笠作る。
宝暦九年(1759年)
六番山竪町下のあと疱瘡除けの祈願のため鰯町下・浜口浜・対馬小路中下が山笠を舁き入れる。
明和八年(1771年)
六番山笠当番須崎町中が台に車を付けしが所々にて庇を損じその上怪我人も有りて取り除く。
天明七年(1787年)
山笠で笹竹を合図に振ること当年より始まる。
寛政七年(1795年)
奥の堂赤間町角辺にて五番山洲崎町中に六番山東町下が追い付き六番山が舁き方を猶予したので無事に相済んだ、よって吟味の上三貫匁をご称美として下さる。 この頃は山笠が追い付くと揉め事が多く起こっていたという。
寛政十年(1798年)
6月10日夜、市小路下の四番山の前に吊るしていた提灯の火が山笠に移り前の方の3分の1が焼失、山笠の人形は骨ばかり残る一大惨事が起こった。
享和元年(1801年)
二番山鰯町下、恵比寿社前に山笠のうわ屋(山小屋)を作りその中に山笠を置く雨を防ぎことの外よろし。
嘉永元年(1848年)
清道旗の始り、東町下より初めて櫛田社内に建つ。
明治五年(1872年)
11月、正月の松囃子6月山笠をはじめその他の作り物の類大小に不拘一切癸酉の年(6年)より禁止の御達出る。
明治八年(1875年)
許可を得て山笠を再興したけれども岩波屋形もなく人形又衣装も粧わず僅かに其形容を残すのみの山笠なり6月15日朝山笠櫛田入りの頃俄に万行寺出火残らず焼ける、櫛田入りは午前11時頃あり、ゆかた山。
明治十二年(1879年)
紀元節の日から松囃子三福神が復活し博多どんたくが誕生。
明治十六年(1883年)
11年ぶりに本格的山笠が再興したが電信線架設のため以前より低し旧6月10日より15日まで山笠奉納。
明治二十四年(1891年)
許斐氏年表によるとこの年から新暦7月10日に山笠を建てたり博多の有志協議の上電信柱を高め山笠を高めんことを当局に陳情す。
明治三十一年(1898年)
曽我部知事の提議により山笠を中止せんとして市会の問題となり九州日報主筆古島一雄等の仲裁で継続、しかし電信電話のため台上九尺の山笠建つことになる。今の飾り山笠のように高い山笠を舁いていたが電線を切ったりして問題に「それじゃ山笠を低くしよう」となり飾り山笠と舁き山笠の分離、また裸で野蛮だとなり今のように揃いの水法被を着るようになる。
明治三十八年(1905年)
雷騒動
本年ならし舁きの際、雷を太鼓と間違えて紛糾、西門流(福神流)の山(当番二番山上店屋町)標題 表「敵国降伏」見送り「亀山上皇像」は取崩され5本にて追い山をなす西門流(福神流)翌年より不参加となるがその代わり飾り人形を御笠川岸や西門橋わきに据えて祇園様に奉納する。
この頃より追い山時間の計測が始まる、中洲の幸田時計店に話が持ち込まれ幸田家が奉仕。日露戦争中なり満州にて山笠をなす。
明治四十三年(1910年)
福博電気軌道が営業開始市内電車が走る、電車架線のため舁き山笠低くなる。
明治四十四年(1911年)
新暦7月1日"注連おろし"と定め、現在の7月1日から15日までとなる。
大正二年(1913年)
西門流(福神流)能当番のみに。
昭和十三年(1938年)
4月21日イタリア訪日使節団が来福、一番山(倉所町)、二番山(下西町)、三番山(大乗寺前町)が櫛田入りを披露。
昭和十九年(1944年)
戦局悪化で当局と折衝の末11・12・15日に制限して挙国戦勝に順応。9月、火野葦平原作・木下恵介監督・皇軍慰問映画「陸軍」に山笠出動、博多各流では合同で山笠一本を仕立て下洲崎を舁き廻る落石栄吉氏(対馬小路)半田喜三郎氏(竪町)が台上がりを努める。作品は明治の西南戦争から太平洋戦争までをある家族の足どりとからめて描く大作で田中絹代・笠智衆・杉村春子・東野英治郎・上原謙・佐分利信・佐野周二・細川俊夫ら豪華キャストが出演した。
昭和二十年(1945年)
6月19日、福岡大空襲により博多の町は殆ど焼失し山笠中止となる。
昭和二十一年(1946年)
戦後復興
5月26日、奈良屋校区の「第一次博多復興祭」で三福神の傘鉾どんたくと共に子供山笠舁き回る。山笠の標題「みんなの博多 みんなで復興」
昭和二十三年(1948年)
山笠の本格的復活、舁き山笠7本が櫛田入りを披露、飾り山笠5本建つ。
昭和二十四年(1949年)
4月8日 博多祇園山笠振興期成会結成(会長:落石栄吉 大黒流)期成会の結成を機に当時土居流の加勢町として参加していた東中洲が中洲流として独立、舁き山笠は大黒流・呉服町流・西町流・恵比寿流・東町流・土居流・福神流・櫛田流・岡流・浜流・築港流・中洲流が参加。飾り山笠は櫛田神社・麹屋町・中洲・新天町。サマータイムのため午前5時59分に一番山笠櫛田入り。どんたくを新憲法発布を祝して5月3・4日とする。
昭和二十五年(1950年)
千代流が期成会に加入、この年に改めて奉納の順番を決めて以前の慣行に従い1番づつ繰り上がることを確認した。
昭和二十七年(1952年)
本年福岡部も合わせて舁き山笠14本、飾り山笠12本建つ過去最多の本数。
昭和二十八年(1953年)
櫛田神社秋季大祭、博多おくんち行事を開催する。
昭和二十九年(1954年)
3月19日 博多祇園山笠が国指定の無形文化財となる。映画館でオールナイト興行が始まる。今では当たり前のオールナイトは追い山見物の観客の為に中洲の映画館が開始、当時中洲地区だけで17の映画館があった。
昭和三十年(1955年)
1月 博多祇園山笠振興期成会を博多祇園山笠振興会に改組。初代振興会会長に落石栄吉氏(大黒流)が就任(昭和30年~昭和32年)戦後、博多祇園山笠の復活に尽力昭和24年結成の期成会から引き続き会長を務めた。7月15日午前3時の祇園例大祭再興。
昭和三十二年(1957年)
2代目振興会会長に井上吉左衛門氏(中洲流)が就任(昭和32年~昭和59年)四半世紀にわたり博多祇園山笠の発展に功労、博多地区の町界町名整理に伴う流の再編成に力を発揮、初めての海外遠征(昭和55年ハワイ)を成功させた。
昭和三十四年(1959年)
シカゴで開かれた国際見本市に飾り山を展示。
昭和三十六年(1961年)
どんたくが福岡市民のまつり「博多どんたく港まつり」として開催される。本年舁き山笠9本、飾り山笠8本、本格的桟敷席が完成。
昭和三十七年(1962年)
福岡市の要請で集団山見せ開始、13日午後で当初は昭和通(蔵本町交差点~天神)を舁いていた。参加した山笠は中洲流・西町流・千代流・恵比寿流・呉服町流・櫛田流・東町流・大黒流であった。
昭和三十九年(1964年)
櫛田神社の飾り山笠が1年を通しての奉納を開始。走る飾り山笠「上川端通」が櫛田入りの奉納を開始。福神流が能当番を返上、以後宮総代が担当。
昭和四十年(1965年)
唐人町飾り山が最後となる。
昭和四十一年(1966年)
博多の町界町名整理で山笠の区分けが混乱。土居流は保存会として運営、呉服町流は解散し東町流は東流に西町流は西流に再編成。
昭和四十六年(1971年)
戦後復活し途絶えていた子供山笠が寿通で誕生、その後新天町と千代流に出来る。大黒流を構成する川端中央街が飾り山「川端中央街」を奉納開始する。
昭和四十八年(1973年)
大黒流を構成する下新川端町が奉納する飾り山「川端通」が「下川端通」へと変更。
昭和五十年(1975年)
5月12日、大濠公園で開催中の「福岡大博覧会」に七流合同で舁き山笠を舁き入れる。全流合同で山を舁くのは初めての試みだった。本年舁き山笠7本と飾り山笠9本。東区香椎駅前のアピロス香椎店前にて飾り山「アピロス香椎」が奉納を開始する。
昭和五十二年(1977年)
南区野間大池のアピロス野間店前に飾り山「野間アピロス」が奉納を開始。
昭和五十三年(1978年)
福岡大渇水
福岡市は5月から給水制限を行い(翌年3月まで)深刻な水不足に。この年の山笠は水確保に努力し各地からの応援水により例年通り無事奉納する。
天覧山笠
10月22日、東京で開かれた「会議所制創立100年全国郷土祭」に参加。明治神宮外苑の絵画館前に飾り山笠を展示、国立競技場に七流合同で舁き山を持ち込む。昭和天皇臨席のもと山笠を披露、舁き山が初めて博多を出る事となった。
昭和五十四年(1979年)
2月3日 国指定重要無形民俗文化財となる。渡辺通一丁目のホテルニューオータニ博多前の広場にて飾り山「渡辺通一丁目」が奉納を開始する。9月21・22日 東京 国立劇場で「日本民謡まつり」に振興会役員らが参加し「博多祝い唄」を披露する。
昭和五十五年(1980年)
初の海外遠征。ハワイ・ホノルル市で開かれた「アロハ・ウィーク・フェスティバル」に参加。ハワイ側の実行委員と打ち合わせの際、締め込みは"NO"と難色を示すが振興会側が「ハワイのカメハメハ大王だって同じじゃないか」と主張し締め込みOKとなる。標題「日本若武者之薫」人形師:中野親夫
昭和五十七年(1982年)
東流が40年ぶりに飾り山を復活させ奉納を開始。集団山見せのコースが明治通(呉服町交差点~市役所)に変更。
昭和五十九年(1984年)
3代目振興会会長に中村茂氏(恵比寿流)が就任(昭和59年~昭和62年)副会長として長く井上氏を補佐、井上氏の辞任を受け三年間会長職を務めた。法被の似合う粋な人柄で全体をまとめ上げた実務派でハワイ遠征を支えた。
昭和六十年(1985年)
北海道芦別市に博多祇園山笠を手本とした芦別健夏山笠が誕生。
昭和六十一年(1986年)
飾り山「野間アピロス」が最後となる。
昭和六十二年(1987年)
4代目振興会会長に樋口武之助氏(大黒流)が就任(昭和62年~平成3年)実務に強く会長としてオーストラリア遠征(昭和63年)ニュージーランド遠征(同年)を成功させた、温和な性格で振興会の融和にも功績は大きい。
昭和六十三年(1988年)
豪州遠征。5月 オーストラリア・ブリスベーン市のオーストラリア建国200年記念「国際レジャー博覧会」とニュージーランド・オークランド市(福岡市と姉妹都市)の「ジャパン・ウィーク」に参加。
平成元年(1989年)
7月8日、福岡市シーサイドももちで開催の「アジア太平洋博覧会(よかトピア)」に七流揃って舁き入れる。北海道芦別市に「芦別健夏山笠振興会」が設立される
平成二年(1990年)
千代流が飾り山を復活させ奉納を開始する。9月13日、大阪・鶴見緑地で開かれた「国際花と緑の博覧会」に舁き山笠2本と舁き手総数1,000人で参加。
平成三年(1991年)
6月28日 福岡サンパレスで盛大に「博多祇園山笠750年式典」を挙行。下川端地区再開発事業に伴い、飾り山「下川端通」が最後となる。天神のソラリアプラザにて旗指し山を再現する飾り山「ソラリア」が奉納を開始。
平成四年(1992年)
5代目振興会会長に井上雅實氏(中洲流)が就任(平成4年~平成8年)2代目会長の井上吉左衛門氏の子息で親子二代の会長就任。公務(県会議員)多忙の中、2期4年にわたり最高責任者として職務に励む。「全国祇園山笠巡行」(平成6年 京都)などを通し「元気な博多」をアピールした。北海道芦別市にて博多人形師亀田氏による「山笠講演会」を開催。振興会会長から手一本入り芦別健夏山笠が博多祇園山笠唯一の公認山笠となり5本の山笠台を博多と同規模のものに作り替える。
平成五年(1993年)
下川端地区再開発事業に伴い飾り山「寿通」が最後となる。
平成六年(1994年)
飾り山「アピロス香椎」が「ダイエー香椎駅前店」へ変更される。7月7日夜半「新天町」の飾り山笠から出火まもなく全焼200年来無かった事だった。7月24日京都市で行われた平安建都1200年祭の「全国祇園祭山笠巡行」に参加。 舁き山(標題「飛燕牛若丸」)と500人の舁き手が入烙。
平成七年(1995年)
9月3日 福岡市で開かれた世界ユニバーシアード福岡大会閉会式のフィナーレに舁き山が登場、福岡ドームの中を舁き回り参加各国の選手と別れを惜しんだ。10月2日からNHK朝の連続テレビ小説「走らんか!」放送開始、博多を舞台に山笠も登場。
平成八年(1996年)
6代目振興会会長に石橋清助氏(土居流)が就任(平成8年~平成13年)21世紀に向う博多祇園山笠の足固めに尽力、自治の精神を大切に各流間の融和に努め祭りの文化面を強調しサミット蔵相会合にも協力した。博多部の四小学校(冷泉 奈良屋 御供所 大浜)の統廃合により博多小学校が開校、寿通の子供山笠は博多小学校開校に伴い博多流と改称。キャナルシティ博多がOPEN、同施設中央広場にて飾り山「キャナルシティ博多」が奉納を開始。
平成九年(1997年)
芦別市長が博多祇園山笠集団山見せの台上がりを務める。
平成十年(1998年)
北海道芦別市芦別健夏山笠振興会十周年。
平成十一年(1999年)
下川端地区再開発事業が完了し「博多リバレイン」として下川端地区の飾り山が復活。飾り山「ダイエー香椎駅前店」が店舗閉店に伴い最後となる。
平成十二年(2000年)
福岡市博物館で開かれた「九州・沖縄サミット福岡蔵相会合」に飾り山笠を展示、標題 表「菅原傳授手習鑑」 見送り「福岡鴻臚館」。福岡ドーム南側ホークスタウンにて飾り山「福岡ドーム」が奉納を開始する。
平成十三年(2001年)
7代目振興会会長に後藤久義氏(西流)が就任(平成13年~平成18年)振興会50周年の平成16年に記念式典開催の他、資料展や記念誌の刊行に上海遠征を成し遂げ、17年には全国都市緑化ふくおかフェア(アイランド花どんたく)での山笠舁き入れなども実現した。世界水泳選手権大会の会場となったマリンメッセ福岡に博多リバレインの飾り山笠展示。
平成十六年(2004年)
1月 博多祇園山笠振興会が創立50周年を迎える。6月12日 「博多祇園山笠振興会創立50周年記念式典」の開催と記念誌の刊行。9月21日 上海遠征に舁き山(標題「英姿颯爽誉」人形師:井上和彦)と300人の舁き手が参加。
平成十七年(2005年)
飾り山「天神一丁目」が奉納を開始する。
平成十八年(2006年)
8代目振興会会長に波多江五郎氏(恵比須流)が就任(平成18年~平成19年)国指定重要無形民俗文化財の伝統や品格を守ることに尽力し念願の「博多祇園山笠」「博多山笠」の商標登録を実現した一方でみんなが楽しめる祭りの遂行に努めた。
平成十九年(2007年)
台風4号の接近に伴い安全を考慮し7月13日大半の飾り山を解体撤去される。九州国立博物館に飾り山(天神一丁目)を展示。
平成二十年(2008年)
9代目振興会会長に瀧田喜代三氏(東流)が就任(平成20年~平成26年)3月 博多祇園山笠振興会が地域づくり総務大臣表彰を受ける。
平成二十一年(2009年)
博多祇園山笠振興会公式サイトがOPEN。
平成二十二年(2010年)
集団山見せのコースが明治通り往復に変更、全山笠が天神到着後に折り返す形となる。
平成二十三年(2011年)
6月8・9日 初の海外宣伝として韓国(釜山市)へ。博多祇園山笠起源から770年を迎え、6月16日記念式典挙行。
平成二十五年(2013年)
福岡市博物館リニューアル特別企画として11月3日~12月23日「山笠の力 ハカタウツシ」展が開催。明治3年の舁き山(全長17m)を再現し展示、標題 表「橋辨慶」人形師:亀田均 見送り「義経一ノ谷」人形師:生野四郎
平成二十六年(2014年)
10代目振興会会長に豊田侃也氏(千代流)が就任。博多祇園山笠振興会創立60周年を迎える。台風8号接近に伴い安全を考慮し7月9日に四番山笠中洲流、六番山笠千代流、十番山笠福岡ドームの飾り山笠が解体 祭り終了前に飾り山笠が解体されたのは2007年以来2度目となりました。
平成二十七年(2015年)
4月5日 聖一国師生誕の地、静岡市の「静岡まつり」に遠征し参加。同市葵区の御幸通りにて舁き山(標題「天下泰平礎」人形師:宗田智幸)を披露。
平成二十八年(2016年)
6月 福岡市でライオンズクラブ世界大会開催に合わせ飾り山を24日から先行公開。12月 博多祇園山笠を含む全国33の祭りが「山・鉾・屋台行事」としてユネスコの無形文化遺産に登録決定。
平成二十九年(2017年)
5月 ユネスコの無形文化遺産に登録された九州の5つの祭り(博多祇園山笠・戸畑祇園大山笠・唐津くんちの曳山・日田祇園の曳山・八代妙見祭の神幸)が福岡市天神に集合、2日間にわたりお披露目。

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